都市の生活に慣れきったのちに田舎、特に集落ほどの狭いコミュニティで暮らすのであればこれを意識しないといけない。

前日、集落内でお世話になっている夫婦のお父上が亡くなられた。
僕はその日、朝から体調を崩していたためにお通夜に参列できずにいた。
翌日は体調をどうにか整え葬儀に参加。
集落からは手配されたバスに乗り込むと、準備や手伝いで先に向かった人を除く集落中の人が乗り込んでいた。
葬儀場に着くと、見知った集落のおじさんたちが受付をしている。

会場にはかなりの数の椅子と人。
その光景を見ていかに生前にいろいろなことに尽力されていらっしゃったんだろうと思いつつ、自分がどれだけのことを周りに対して出来ているのかも考えさせられる。

しめやかに葬儀が終わり、ご親族以外の皆は集落に戻り集会場でお斎が催される。
バスに乗っている時から持っていたある種心地よい違和感があったが、それが何なのかが明確になった。
家族でもないただ近くに住んでいるだけで、コミュニティ内の皆が集まるっていうのは都市ではまずないということだ。

僕が5年間京都市内に暮らしていたとき、町内で1、2度くらい葬儀があったようだった。
なぜ推測の表現なのかというとその情報は回覧板による事後での通知だったり、道を通りがかっていたらそれらしき光景を目にした程度だったからだ。内2年間は町内会の役員(副会長)を務めていたにも関わらずだ。
町内会程度の規模感によるコミュニティでもそれなりにドメスティックな関係性だと思っていたが、この集落に関わり始めてからは距離はより近くなった。

集落と呼ばれるコミュニティ単位では誰かに何かがあればすぐに駆けつけてくれる。
そういう昔ながらの支え合いながら生きていくという姿勢が未だに残っている。
都市から移住したい人間にとっては、家族や友達以外の他人と付き合い続けることに面倒と感じるかもしれない。

京都で町内会の役員を引き受けたのもコミュニティの研究の意味が強くあったが、時に分かりにくいことや人付き合いで苦労したこともあった。
この経験は田舎に関わろうとした時にとても役に立った。
他人と付き合い続けるということは面倒だという前提を持てたことが大きい。

たとえ面倒でも付き合いたいと思える関係性をいかに作るのか、寄り添っていくのかというある種の覚悟が都市から狭いコミュニティに移住したい人には必須条件だと思う。

田舎に住みたい人は面倒が嫌だったり人に寄り添う覚悟がなければ、たまに遊びに来たり出来るくらいの距離の街の方で暮らした方がいいのではないだろうか。

半日集落の人々といることで改めて共に暮らすということを意識させられた。
それは僕にとって凄く心地よく良い場所に移り住んだなぁと感じる日だった。